初めての一人暮らし(再掲載)
ノーファイトです。
以前、「はてな」のお題「初めての一人暮らし」でブログを書いたことがあります。調子に乗って4回連載になってます。たまたま、今日見つけて、懐かしく読んでいました。
再掲させていただきます^^
① 衣食住の「住」
私が初めて一人暮らしを始めたのは、大学に入って、下宿をするようになった時です。
今から40年近く前のことですので、若い方たちにはピンと来ないかもしれませんが、思い出しつつ書いてみます。
アパートの風景
学生専門の2階建てのアパートでした。
家主さんはアパートのすぐ横の大きな家に住まれていました。建築業をされていたように思います。定期的にアパートに各種点検に来られましたが、接触はビジネスライクだったので、お人柄などについて記憶はありません。
電話は、玄関に共同で使えるものが一台あっただけです。懐かしいピンクの電話だったのではないでしょうか?
かけるときは公衆電話として10円玉を入れ、かかってきたときは近い部屋の下宿生がとり、大声で「○○さん、電話ですよ~」と呼びかけたものです。私は電話の近くの部屋にいましたので、よく呼び出し係をしました。
呼び出した下宿生が、電話で彼女との別れ話をしているのを、聞いたこともあります。
トイレと台所は共同、風呂はありませんでした。今では考えにくいのでしょうね。ですが、当時、よほどのお金持ちのご子息でないかぎり、こんなところに下宿していたと思います。家賃は一月に15,000円でした。電気代も水道代も込みだった思います。どちらも、あまり使ってなかったですが。。。
私の部屋
私の部屋にある大きな家具といえば、勉強机と本棚だけ。他は何もなかったように記憶してます。
受験勉強を終えて、晴れて大学生になったのですが、下宿の部屋でできる楽しいことは何もありませんでした。テレビは存在していましたが、私の部屋にはありませんでした。パソコンなどはもちろん存在していません。受験生時代にお世話になったラジオには、なぜか興味は持てませんでした。要するに、時間をつぶすアイテムはほぼ皆無だったのです。
できることと言えば、勉強や読書ということになります。
ですが、受験勉強から解放されたばかりの私に、そのような意欲はありません。
いったい部屋で何をしていたんでしょうね。ほとんど記憶にありません。貧乏学生でしたので、漫画雑誌を買った記憶もありませんし。。。たぶん、友達になりかけていたクラスメートと遊んでいたんでしょう。このあたりは、おいおい思い出すかなと思います。
先輩の下宿に遊びに行きました。
下宿を始めて2,3日後、あまりにすることがなかったので、先輩の下宿に遊びに行きました。
私が現役学生で、先輩が浪人のときに、予備校で知り合った方です。公衆電話から電話して、遊びに行っていいかと尋ね、「おいで、おいで」と優しく言ってくれたことを今でも覚えてます。私は寂しかったのですが、先輩もちょっとは寂しかったのでしょうね。
バスを乗り継いで、行きました。
先輩の下宿では、安い酒をいっぱい飲みました。
スルメ をあぶって、マヨネーズと一味をつけて食べました。美味しかったです。先輩は大学で勉強していることを、あれこれ語っていました。
途中で、同じ下宿にいる大学生が何人か出入りしてました。お酒の経験が乏しい私でしたので、途中から半分寝ており、まったく記憶はないのすが、なにやら熱く議論もしていたことだけは覚えています。
後でわかったことですが、同じアパートの住人が交流することは、当時でもとても珍しいことでした。私のいた下宿では、そいうことは一切なかったですし。
この話、もう少しだけ続けます。どのくらいご興味をもっていただけるか検討もつきませんが、頑張って面白いこと思い出します^^
② 衣食住の「食」
お題「初めての一人暮らし」の二回目は「食」について書きます
食べ物にはいくつも思い出がありますが、今思い出して書いてみたいことを三つに絞ります。
喫茶店のモーニングサービス
貧乏だ、貧乏だと言いながらも、若い頃からコーヒーが好きで、朝食は少し金銭的余裕があるときは、喫茶店でモーニングサービスで食べていました。
メニューは、コーヒー、トーストそしてゆで卵でした。値段は覚えていませんが、今と同じように、日中のコーヒー代と同じだったと思います。
それでも今から考えると贅沢ですよね。。。朝から喫茶店というのは。
言い訳ですが、当時は喫茶店文化全盛だったのです。
いたるところに個人経営の喫茶店がありました。学生も社会人も、暇があれば喫茶店に行ってました。各店がマッチ箱を作り、それを下宿の部屋に飾るのも、オシャレの一つだったくらいなんです。
マドンナに会いたくて
喫茶店の多くにはマドンナがいました。
清楚で、当時のうぶな大学生がハマッテしまうような綺麗な女性が多くの喫茶店で、ウエイトレスとして働いていたのです。
(マドンナのイメージ図です ↓ )
私が行っていた喫茶店にもマドンナがいました。そして、私もハマリました。
大学に行く前に、彼女が生き生きと働く姿をみるだけで、幸せな気分になりました。他の客も、たぶん彼女を見たくて通っていたのだと思います。念のために言いますが、あくまでも「見たくて」です。注文のために「モーニング、ホットコーヒーお願いします」以上の言葉を発する猛者はいませんでしたから。ナンパという言葉は、少なくともこの喫茶店にはなかったのです。
マドンナはどこへ
幸せな時は長くは続きません。
いつからかマドンナの姿は見えなくなりました。代わりの店員はいたはずですが、性別も含めてまったく記憶にありません。何度か通いましたが、やはりマドンナはいません。辞めてしまったのでしょう。
お客さんの数もどんどん減っていきました。そして、私もその喫茶店には行かなくなりました。
チキンラーメンにはお世話になりました。
アルバイトの入金が期待通りに来ないことがありました。といいますか、なにか無駄遣いをして、手持ち資金が寂しくなることがあったのでしょう。
そのときにお世話になったのが日清食品のチキンラーメンです。チキンラーメンについては語りたいことはあります。ですが、秀逸のエッセイが東海林さだおの『おでんの丸かじり』にあり、そちらをお読みいただくほうが良いと思います。
初めての正月
「食」での最後に書き留めておきたいことは、下宿をしていて正月に食べることに困窮したことです。
当時の下宿大学生が、休暇中に実家に帰ることは、恥ずかしい、漢(おとこ)ではないという雰囲気がありました。
なので年末年始、私は下宿先で過ごすつもりでいました。
ところが食べ物がないのです。
ファミリーレストンも牛丼屋も当時はなく、食堂はすべて個人経営、すべて休み。
コンビニなどは当時はなかったので、チキンラーメンを買うこともできません。
仕方なく実家に帰りました。
私の顔をみて両親が喜んでくれたこと、今でもよく覚えています。
③ 衣食住の「衣」
お題「初めての一人暮らし」の3回目は衣食住の「衣」です。
実はあまり書くことがありません。男子大学生がオシャレをするというのはこの頃あまりなかったですし、私にはオシャレをする経済力はなかったためです。
要するに着た切り雀だったのです。
チュンチュン
ですが、必死になって思い出すと、オシャレに関係しそうなことが少しありました。
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異性のこと
「衣」といえばオシャレ、オシャレと言えば「異性」ですが、私にとって異性は遠い存在でした。喫茶店のウエイトレスを見てドキドキしていたくらいに縁がありませんでした。
そういう時代であったとも言えますし、そういう大学に通っていたとも言えますし、そういう私であったとも言えます。
とにかくファッションを意識するきっかけ、つまり女性との縁がなかったのです。
ですが、縁をつくる努力を二回したことがあります。
ゴウハイ
いまや死語となっていますが、ゴウハイというのが当時はやっていました。合同ハイキングの略です。男女が合同でハイキングをすることです。アルコール抜きが原則だったと思います。
こんな風にならないかなと思って、 ↓ 参加しました。
ハイキングにふさわしい服も買いました。
男女合わせて12人くらいで、近くのそう高くない丘に行きました。他愛のない話をして、お昼に弁当を食べました(そういえばお弁当、どうやって入手したんでしょう)。
それ以外のことはまったく覚えていません。何も起こらなかったのでしょうね。
ダンパ
これも死語でしょうか。ダンスパーティのことです。
当時、大学生になったらダンパという雰囲気が、一部の活発な学生の間にありました。
私も参加してみようと、近くにいる活発な男子学生にレッスンをお願いして、私を含む活発でない男子学生たちがレッスンを受けました。ジルバともう一つ忘れましたが、習いました。
いい加減に練習して、そう日も経たないある日、こんな風にならないかなと思って、 ↓ 参加しました。
一張羅のスーツを着ていったと思います。蝶ネクタイは持っていませんでした。
会場では勇気を振り絞って、2,3人の女性に声をかけ、踊っていただきました。公の場で、異性の体に堂々と触れることができることに深く感動しました。同時に、公の場で、異性に声をかけることがいかに大変であるかも学びました。二つのことを一時に学習できたわけです。
それ以外のことはまったく記憶していません。何も起こらなかったのでしょうね。
振り返れば
男の友人知人と遊ぶ場面ではほぼ常にアルコールが伴っていました。誰かの下宿に集まって、安い酒を飲んでしいました。
しかし、女性を目指した場面では完全にノンアルコールでした。一人暮らしの学生時代、女性とお酒を飲んだ記憶はないのです。今から思えば不思議ですが、本当にそうだったのです。
女性と無縁、したがってファッションに無縁、そのために一人暮らしの時代の「衣」について、ほとんど書くことはないということになります。
予想していた通りの結論になりました。すみません。
お題「初めての一人ぐらし」の最後に衣食住の前提である「金」のことを書きます。
④ 衣食住の前の「金」
一人生活を始めて少し落ち着いてから、まずしなければならないことはアルバイト探しでした。
中華料理屋でアルバイト
当時はアルバイトニュースなどはなかったので、下宿近くを歩き回って、店頭に貼ってある募集広告をチェックしました。そして、とりあえずここでいいかなという店に飛び込んで、いきなり面接を受けるシステムでした。
最初に始めたのは、学生相手の中華料理屋での皿洗いです。個人経営店でした。下宿から歩いて数分のところにありました。
夕方に入って、深夜3時頃までの勤務でした。
これはきつかったです。
翌日午前中の授業に行くのが大変だったからです。とくに語学の授業は毎回出席がとられていたので、行かないわけにはいきません。若かったとはいえ、体力的に厳しかったです。
なので、2ヶ月くらいしか続かなかったと思います。
家庭教師のアルバイト
より効率的なアルバイトを求めて、あれこれ探し、結局、家庭教師を派遣する会社に登録することにしました。受験勉強を終えたばかりでしたので、何とかなると思ったのです。
最初の家庭教師先は一週間もかからず決まりました。ごく普通のサラリーマンのお宅でした。自転車で行ける距離だったのもありがたかったです。
欲を出してもう一つしたいと申し出たところ、これもまた割とすぐに決まりました。それがなんと、開業医のお宅でした。
これは金銭的な意味だけでなく、実に美味しかったです。さすがお金持ち、帰るときにはあれこれお土産を、主に高級な食べ物をいただけたからです。
それから大学を卒業するまで、家庭教師のアルバイトを続け、何とか食いつなぎました。書き忘れていましたが、実家からの仕送りは家賃分だけという約束だったのです。
麻雀三昧
こうして夏休みに入る頃には生活の経済的基盤は整いました。
ところが夏休み入った頃から、遊びを覚えていきました。
当時は下宿している学生が、夏休みだからといって長期間、実家に帰るようなことはありませんでした。親離れができていないと思われるのは恥ずかしいという感覚があったのです。
ですので、授業のない夏休み、少しずつできはじめていた友人とよく遊びました。当時の活発でない男子学生の遊びといえば、麻雀、これ以外にありませんでした。
麻雀を覚えたばかりの私でしたので、知人たちから、アルバイト代を巻き上げられたものです。その後、少しずつ強くなり、大学卒業後は、会社の同僚などから巻き上げる側になれました。
おわりに
お題「初めての一人暮らし」、調子に乗って4回も連載してしまいました。書いているうちに、いろいろ思い出してしまったのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。